カマドウカ

巨人、日本シリーズで4連敗。何故か嬉しい。野球やサッカーには一切興味がないと書いたが、巨人に対しては権力、中央の象徴のような反感があるのだろう。昔、巨人ファンは水戸黄門が好きで、阪神ファンは必殺仕事人が好きだと言われて私もなるほど、その通りと得心していたが、今の私は水戸黄門の方が好きだ。必殺仕事人も見たが昔ほど面白いと思えない。私の中で何か変わったのか、それとも阪神が変わったのか。

 

今日の毎日新聞の五箇公一さんの連載コラムでカマドウカを取り上げていた。

f:id:sadajishohei:20201126102008p:plain

カマドウカ!40年以上ぶりに聞く名前だ。でもその姿、形はすぐ脳裏によみがえった。コラムには写真も載っていたが、見るまでもない。小、中学生の頃家の中で一番普通に居た虫だ。と言ってもゴキブリやハエ、蚊のように室内にはけして入ってこない。玄関の電灯を点けるとささっと下駄箱の下に逃げ込んでじっとこちらの様子を伺う、実に可愛い奴だった。(五箇さんはその動きの速さがとても怖かったらしいが。)

 

コラムでも触れているがカマドウカを見かけなくなって何十年経つだろう。

 

カマドウカだけではない、気が付けばかなりの種類の虫が身の回りから居なくなっている。私の育った町は昔から中途半端に開けた場所で林や広っぱもなかったので子供の頃からそうたくさんの昆虫が身近に居た訳ではない。カブトムシやクワガタは図鑑かペットショップで見るものだった。その点では現代っ子と変わらない。

 

でもチョウが居た。トンボが居た。夏に窓を開けているとコガネムシや色々な虫が電灯めがけて飛んできた。家族の中で私はそれらを退治する係だった。そしていつの間にか彼らは来なくなった。

 

今、家で見かけるのは先に書いたゴキブリ、ハエ、蚊のみ。言うまでもなく即刻駆除の対象だ。しかし彼らもいつかその姿を見なくなる日が来るのだろうか。その時、我々は何を思うのだろう。

 

 

困った性分

人生の3分の1は寝ていると知ったのは子供の頃に読んだ本だ。1日平均8時間寝るからという単純計算だか8時間も寝るのは育ち盛りの時期までで、60代になると平均5-6時間まで短くなるそうで、今の私もそれに近い。

 

思い出したのだが父親は晩年、特に身体の具合が悪い訳でもないのに昼間から寝ていることが多かった。私もああなるのだろうか。何となく嫌だ。

 

睡眠時間が短くなるに反比例して伸びているのが、買い物で迷っている時間だ。買い物と言っても高価な買い物ではない。いや、私の場合むしろ高価な買い物ほど決心が早い。2016年以降私は子供に買い与えた分も含めて車を3台買っているが、買おうと思い始めて契約するまでに2週間以上かかったことは一度もない。何れも故障やどうしても直ぐ買う必要があった訳ではないのに、である。

 

こんな私であるがスーパーでの食品や中古本、CDなど百円以下の単位の買い物になると途端に事情が変わる。今日もそうだった。古本屋に赴いたのはLINEで¥200引きのクーポンが来ていたから(大の男の行動動機としては余りに情けない)。

 

結論。本屋に入って出て来るまで約2時間。買ったのは¥290のCD2枚のみ。この間の心の葛藤について事細かに書こうと、実際書き始めたがそれだけで一編の大河小説が書けそうなので、これは将来本格的に作家を心指すときに備えて取っておく。

 

自身の人間の小ささで買わないだけならいい。困るのは「買っておけばよかった」の思いを妻や子供にぶつけてしまうことで近くの店ならもう一度行けば済むが、大阪の店だったりすると「近々行く予定ない?」とか「電車代出すから行ってよ。」と本末転倒もいいところだった。これに関してだけはコロナに感謝しなければならない。

 

ある時、次女がこの言葉を教えてくれた。

「買う理由が値段だったら買うな。買わない理由が値段だったら買え。」

胸にズキンと響いた。二日酔いで出社した時、上司から言われた「酒は飲んでも飲まれるな。」よりは少なくとも響いた。

 

こんなことを言ってるようではまだまだ私の迷い癖は治らない。

知らぬは知らぬとせよ

この年になっても(なるまで)勘違いしていたことは案外多い。

 

例えば「頭寒足熱」という言葉の読み。私はつい数年前まで「とうかんそくねつ」と信じて疑わなかった。

 

一昨日の経済番組で知ったのだか「金持ちは缶コーヒーを買わない」という言葉。類似タイトルの書籍「なぜお金持ちは缶コーヒーを買わないのか」も見た覚えがある。

 

私はこの言葉はてっきり「金持ちは缶コーヒーのような安物は飲まない。飲む時はちゃんとした喫茶店で飲む。」という意味だと思っていた。処が昨日のテレビの解説で聞いたのは全くの逆。「1本¥100程度の缶コーヒーでも1日に2、3本も飲んでいると、それだけで年間数万〜10万円の出費になる。金持ちはペットボトルに水を入れて持ち歩く。」というものだった。また勉強になった。

 

因みに当該番組で紹介されていた富裕層の特徴は下記の通り。


f:id:sadajishohei:20201125045724j:image

 

ここは私の独白スペースなので己の無知について書くのに抵抗はないが、公衆の面前、しかも地位ある立場の人が知らないことを晒すのはそう簡単なことではない。

 

それで思い出すのは、私の尊敬してやまない双葉山の話。引退後日本相撲協会理事長として記者会見に応じていた時、ある記者が簡単な外来語を質問に入れた。子供でも知っているような言葉だったらしいが、時津風理事長(双葉山)は知らなかった。さて、どうしたか。

 

「それはどういう意味ですか?」時津風は堂々と聞き返した。普通なら知ったふりをするか、適当に誤魔化すだろう。ところが彼はそうしなかった。自分の知らないことを聞くのに何のためらいもなかつた。「何という偉い人か。」そこに居た記者一同深い感動に包まれたという。

 

不覚にも涙が出て来た。筆を置く。

 

 

 

ただただ感謝

持病というほど大げさなものではないが2ヶ月に1度通院している。予約制なので待合室は2、3人しか居ないのが普通だが今日行くと座る椅子がない程の超満員。一体何事?

 

しばらくすると診察室から「ウーン」とも「ワーン」ともつかない謎のうめき声。いつも診てくださる先生の「では、紹介状を書きましたので○医院へ行ってください。」という声が聞こえた。どうやら急患だったらしい。しばらくすると車椅子に乗った男性と、それを押す父親らしき人物が出て来た。「すみません。ご迷惑をお掛けしました。」我々に謝りながら父親は出て行った。息子は相変わらずうめき声をあげていたがなぜかその表情に感情は窺えなかった。

 

推測だが息子は20歳前後。父親は60-70歳くらいだろうか。勿論うっかりしたことは言えない。とてつもない苦労をしたら人間10-20歳くらい、いっぺんに老ける。ひょっとして40歳代だったとしても何ら不思議はない。

 

私は3人の子に恵まれ一番下の息子も二十歳を過ぎた。上の2人の娘はそれぞれ3年前、2か月前にママになった。皆元気だ。

 

「皆元気だ。」と書きながら「当たり前だが」と文頭に付け加えそうになった自分を恥じた。健康なのはけして「当たり前」ではない。「幸いなことに」でもまだ軽い。

 

懇意にしている某自動車ディーラーの人は私より2,3歳年長なだけなのに今年も、そして来年早々にも手術を受けるらしい。この方は持病のせいで宿泊旅行も諦めているとのこと。ある意味、家族も可哀想だ。

 

気が付けば今、ファミリーで一番病気になる可能性が高いのは自分自身だ。家族のためにも健康でいるよう心掛けねば。

 

そして今健康でいられることに「ただただ感謝」それが全ての出発点だと思う。

筒美京平さん

ミケランジェロの大作「システィーナ礼拝堂天井画」。

f:id:sadajishohei:20201124081840j:plain

 

ここを訪れたゲーテはこう言った。

「人が一生の内に何を成し遂げられるか、これを見るまで分かるまい。」

 

偉大な人は多いが、とても人間業とは思えない(質量ともに)業績を残した人、彼らこそ天才と呼ぶにふさわしいのだろう。モーツァルトも作曲に要した時間内に一般の人は写譜することすら出来ないという桁外れの天才だった。

 

先日亡くなった筒美京平さんや作詞家の故、阿久悠さんを彼らの同列に語るつもりはないが、その業績の幅広さ、圧倒的な認知度は常人のスケールをはるかに超えていることに異論のある人はいまい。

 

筒美さんの追悼番組をいくつか見たが、「サザエさん」までが筒美さんの作品だったとは!50年近く前、「ヘイジュード」がビートルズの作品だということを知った時に同じような感慨を覚えたことを思い出した。

 

その筒美さんのトリビュートアルバムが来春リリースされるという。

https://natalie.mu/music/news/405908

その内容を少し見たが、ちょっと待ってくれ。この話を聞いた時、最初に思ったのが「頼むから初発の時の歌手、歌唱で出してくれよ」ということだった。オリジナルの歌手でも再録する度に勝手なアレンジや唱法で同じ曲とは思えないほどひどい音楽になってしまうことが多いからだ。いい例(悪い例?)が山本譲二さんの「みちのくひとり旅」で作曲家のキダタローさんが怒り心頭だったことは記憶に新しい。

 

それでもオリジナルの歌手が歌っているのならまだいい。今回のアルバムは何だ。筒美さんを尊敬し、影響を受けてきた連中の集まり?冗談じゃない。

 

イギリスのダイアナさんのように音楽家ではなかった人の追悼アルバムに各自が持ち歌で参加するなら分かる。筒美さんのような大作曲家の追悼アルバムに才能も認知度もはるかに劣る面々がどの面下げて参画しようと思えたのか?

 

いかん。今まで築き上げてきた美文が保てない。筆を置く。

年賀状

そろそろ年賀状を書く季節になった。年賀状と言って思い出すのは小学生時代の国語の参考書に引用されていた團伊玖磨さんのエッセイ。あの手この手で良くこれ程というくらい年賀状の悪口を書き連ねているのだが、根底には年賀状に対するそこはかとない愛が感じられる名文であった。

 

想像だが團伊玖磨さん自身、毎年膨大な枚数の年賀状をやり取りされていたのではないだろうか。

 

処が今はどうだ。今の30代以下で年賀状を出す習慣のある人はどの位いるだろう。私の子供も職場や親戚の最低枚数を除き年賀状は出さない派。確かにしょっちゅうLINEやメールで繋がっているので改まって新年の挨拶でもあるまい。

 

考えれば年賀状も悪い。って年賀状自体に責任はないが。

 

何年か前、私宛に届いた数十枚の年賀状の内、表も裏も全部手書きというのが何枚あるか数えたらたったの1枚であった。その人も次かその次の年に「今年で年賀状を卒業します」と言って来た。

 

私にも多い時は100枚を越える年賀状が来ていた時期があった。しかし、その大半は前年に会ったことも話すらしたことの無い相手。当然今年も会う予定はない。それらを全部止めるとそれこそ一桁に近くなる。それで元々余り相性の良くない(私の主観)相手、元旦に届かなかった相手などとどんどん切り捨てて、今は40枚程で落ち着いている。

 

年賀状でひとつだけ心掛けているのは多くの人も行っているように必ず一言以上添えること。

 

えっ、読める字で書いてるか?

 

そこまで気が回らなかった。