徳光和夫さんとみのもんたさん

週刊文春の年末恒例企画、「顔面相似形」が今日発売の同誌に掲載される。毎年この号が発売されるといよいよ年末も間近の感を強くする。初めてこの企画を見た時の衝撃は前に書いた。あれから20は経っていると思うが些かも面白さが減じていないのはさすがだ。

 

 

今日の「徹子の部屋」のゲストは徳光和夫さんとみのもんたさんだった。同じ大学(立教)で徳光さんが3年先輩。徳光さんが80歳、みのさんが77歳。仕事の上ではこれ以上ない成功を収めたふたりだが私生活は結構な波風に晒されている。徳光さんは2.3年前奥さんが認知症に罹り「妻より1日でも長く生きなければいけない。」と話す。

 

みのさんはもっと波乱万丈だ。奥さんを6年前に亡くし、以來一人暮らし。朝起きて先ずする事が庭の散歩と言うからその豪邸ぶりが分かる。しかもみのさん本人も最近パーキンソン病になってしまった。昨日5分で出来たことが今日は10分かかってしまうという言葉は哀切に満ちている。

 

私含め、世の男性は自分の方が妻より先に死ぬ、何かあっても妻が面倒をみてくれる、と勝手に思い込んでいる人が多いと思うが必ずしもそうではないという事をこのふたりは示してくれている。「うちに限って」は有り得ないのである。

 

さだまさしさんの「関白宣言」では色々女房に注文をつけている。他のことは一切構わないので「俺より先に死んではいけない」だけは守って欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

益々怖くなる

私だけかも知れないが梅田の放火事件、京アニの事件より恐怖感が強い。先日も久しぶりにバスに乗っている時も、もしここに誰かがガソリンを撒いたら、と思うとそわそわしてしまった。

 

 

ノストラダムスの大予言」が発売されたのは1974年。中学3年生の時だった。今思えば「アンゴルモアの大王が天から降りてくる」なんて何のこっちゃ!だが社会的に大きな反響を呼んだ事は確かだ。その頃の私はませたガキで大人向けの週刊誌なども読んでいたがしばしば誌面を賑わせたことを覚えている。1999年という年代がこれまた絶妙、本の発売から半世紀後。5年や10年ならすぐバレるし、30年後、40年後となると実感が湧かない。しかし、そこは子供、恐怖を感じながらも「どうせ世界が滅びるのだから勉強なんかしても仕方ないよな!」と勉強しない口実に使っていたのだから世話はない。

 

次に我々の安全がヤバいのでは、と感じたのが1995年。この年は年初に阪神大震災が発生、甚大な被害のまだその記憶も生生しい頃にこの事件が起こった。

https://www4.nhk.or.jp/P6896/x/2021-12-21/44/21996/2253049/

 

ちょうどこの事件のすぐ後アメリカ松下から帰任して来た人に聞いたのだが「日本は危ない国だから気を付けろよ」と言われたという。「お前の国には言われたくないわ!」とは流石にその人も言えなかったらしい。

 

「水と安全はただ。」それまでの日本人の常識が頭の中で音を立てて崩れていくような気がした、というのがその時の実感だった。

 

そして今の私の(我々の)恐怖の対象は前にも書いた南海トラフ地震だ。アンゴルモアの大王はいなかった、オウム真理教は逮捕された。でも地震は逃げようがない。海外逃亡という手もあるが別の事件に巻き込まれるかも知れない。それも嫌だ。

 

世界滅亡を怖れたノストラダムス、日本の危機を感じた1995年、主に西日本の太平洋側に被害が及ぶ南海トラフ地震と範囲は限定されて来ているのに余計怖ろしさが増してくる。

 

そんな事よりもっと怖れるべき事があった。自身の健康状態だ。昔流行った3高は高学歴、高身長、高収入だが、今の私は高脂肪、高血糖、高血圧。自覚症状はないが何れも突然死に関わる。

 

この歳まで薬のお世話にならずに来たが年内に病院に行くことを決めた。

余計な口出しするな

週末に見た横井庄一さんの番組で久しぶりの日本の印象を聞かれるシーンがあった。「発展している」とか「ビルが増えた」と言うのかと思いきや口から出た言葉は「なんか暗くなりましたね。」だった。続けて「空気が汚くなっているのでしようね」。納得。

 

 

今年亡くなったサトウサンペイさんの名作「フジ三太郎」にこんなシーンがあった。社員食堂で卵ご飯を作るのだが他の人はご飯一杯に卵1個使うのだが三太郎は卵を醤油で5倍に薄めて(?)、それで一週間分のおかずを賄うというもの。卵は有料だが醤油は無料だから。実際そんな事をする人が居るか不明だが昔はその位卵は高級品だった。

 

実際卵ご飯は美味しい。家のことでは断じてないが、下手なおかずを出されるくらいなら卵ご飯の方が余程有難い、いや日頃美味しいものを食べていても無性に食べたくなる。日本人とは切っても切り離せないものだ。

 

そんな卵ご飯が食べられなくなるかも知れないと言う。前にも書いた「アニマル・ウェルフェア」とかいう馬鹿な欧米の価値観の押し付けのせいだ。ブロイラーで産まれた卵は金網を通ってすぐ下に落ちるので糞や汚物にまみれることなく綺麗な状態で人間の手に入る。だから卵ご飯にも使いやすい。

 

処が欧米はブロイラーは残酷だと言う。鶏を野原で飼えと言う。守らなければその会社の製品をボイコットすると言う。当然卵は汚れ放題だ。殻を通して結構たくさんの細菌か入るので卵ご飯には使い難い。彼らには卵を生で食べる習慣が無いので卵ご飯など知った事ではないのだろう。

 

何が残酷で何が残酷でない。なんて人間が勝手に決めていいのか。闘牛なんてどう見ても公開処刑以外の何物でもないではないか。競馬で馬を鞭打つのは残酷ではないのか。

 

高野山に「シロアリの塚」という墓が建っている。墓石には「シロアリの霊よ安らかに」と刻まれている。太地町にはくじらの供養碑があり、毎年漁業関係者でくじらの霊に供養の祈りを捧げている。こんな事をしている国、他にあるか。

 

あんたらにいちいち言われる筋合いはないんだよ。

安易な慰めが却って傷付ける

携帯が鳴った。0120から始まる覚えのない番号。見当は付いたが果たしてその通りだった。「先日お買い上げ頂いたお腹の脂肪を減らすサプリメントですが今なら2ヶ月目以降も半額でお申し込み出来ます。」私はこんな相手にも丁寧に対応するよう心掛けている。向こうも仕事で電話をくれているのだ。

 

「折角ですが余り効果がないようなので。」

「いや、1ヶ月位で効果が出るものではありません。2ヶ月、3ヶ月と続けて頂いて。・・・」

それなら30日分なんていうキャンペーンするなよ!なんてことはけして言わない。

 

「いや、確かに効いてはいると思うのですよ。現にお通じが良くなっていますし(これは本当)。」

「でしょう、でしょう!ですので是非ご継続を。」

「いや、お通じが良くなった分、腹が減って腹が減って。お陰で余計太りましたよ。どうしてくれます?」

私に電話する順番になった人には気の毒なことをした。まだウンコではなくお通じと言ったことに免じて許して欲しい。

 

 

16年前、JR西日本が犠牲者100人を越える大事故を起こした。その1年後位のニュースで奇跡的に助かった人のインタビューが放送されていたのだが足に障害が残り、傷が非常に痛む、いっそ死んだ方が良かった真剣にそう思うとの言葉が頭を離れない。

 

そしてその人の言葉で一番印象に残ったのは皆から「助かっただけ良かったじゃない。」と言われるのが一番辛いということだ。

 

先日の放火事件がまだ頭を離れない。こんな大事件より神田沙也加のことを先に報じる阿呆ニュースは放っといて、今回の事件でも何人かの方は生命が助かるだろう。ひとりでも多く助かって欲しい。そして彼ら彼女らに我々はつい「助かったから良かったじゃない。」と言ってしまうのだろう。

 

前に書いた十数年前の事故で鎖骨、肋骨を折っただけの、見た目には全く分からない程度の負傷でもかなりの間、特に腕を上げたりすると思わず顔をしかめるほどの痛みが走った事を覚えている。だから下着の着替えは特に苦痛だった。ましてや今回の事故に遭った人の痛み、苦しみは想像を絶する。

 

今回の事故に限らずあらゆる事故、事件の生存者につい言ってしまいがちな言葉だが心しておきたい。子供が亡くなって親だけ助かった人にそんな事言えるか。

クラシックのことをちょっと→改題

一昨日から年賀状の受付が始まった。それに先立って毎年何通かの喪中はがきを受け取るのだがそう言えばここ2、3年喪中はがきの枚数が少なくなってきたような気がする。今年は確か3通だった。知り合いのご不幸事が少なくて良かった、と一瞬思い掛けたがそうではない。我々世代の親があらかた亡くなったのだ。いよいよ次は自分達本人の世代か?もうすぐ正月だと言うのに縁起でもない事を想像してしまった。

 

 

チャップリンは1936年、機械文明を諷刺した「モダン・タイムス」を発表し次はラブストーリーの作品を撮る予定だった。処がその頃ヒトラーがヨーロッパで勢力を伸ばして来た。チャップリンは語っている。「あのおぞましい怪物が勢力を伸ばしつつある時代に呑気に愛の物語なんか作っている場合ではない。」かくしてあの名作「独裁者」が誕生することになった。

 

私も今日は元々クラシック音楽に関する小文を認めるつもりでいたのだがこんな忌まわしき大事件が起きてしまった。そんな呑気な文を書いている場合ではない。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6412823

 

私は元々一人の殺人も死刑にすべきという考えの持ち主だ。そうでなければ奪われた命との整合性が取れない。20人以上もの犠牲者を出したこの放火犯にはどんな刑を与えればいいのか。死刑以上の刑がない今の法規がもどかしい。良くない事とは分かりつつ「一族郎党」という言葉が頭をよぎる。

 

一方で私は被害の大きさで判断が変わることにも反対だ。同じ程度の災害でも人口の密集した地域と過疎地域では被害規模や被害に遭う人数には大きな開きがあるだろう。だからといって前者にだけ特例で何かが認められるなんて事があってはならないと考える。

 

しかし、である。この20数人という圧倒的な犠牲者の前にはただただ胸が痛むとしか言いようがない。放火されたのが「心のクリニック」だから、なんて余計な同情は却って失礼だ。この20数人、皆さんそれぞれの人生があるのである。来年こそはと希望に胸を膨らませていた人も居るだろう、逆に年明けからの職場復帰に一抹の不安を抱えている人も居ただろう、週末なので忘年会の予定の人も居ただろう。

 

そんな事より普通の日常生活、今晩の鍋料理が楽しみだ、あのドラマの続きはどうなるのだろう、来年甥っ子や姪っ子にはいくらお年玉を包もうか、年賀状早く書かなければ、等々。そんな楽しみや不安、喜びや怒り、何もかもが尊い20数人分の人生が一瞬にして奪われてしまったのだ。

 

そしてこの20数人の犠牲者には更にその何倍もの家族、友人が居る。彼ら彼女らも正月どころの気分には到底なれまい。

 

差別用語と分かりつつ敢えて書く。こんなキチガイ野郎をこの世から根絶する方法はないものか。

 

 

 

 

とかく若いときは

特に珍しい事故ではない。今日も日本のどこかで多数発生しているだろう。

https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/amp/1456295

 

私がこの事故を取り上げたのは偶々ニュースで事故を起こした車の車内の音声が入った映像を見たからだ。若い男性の「ヤバい、ヤバい、うあ~。」という生なましい声が入っていた。凍結した道を飛ばした結果だ。今の私ならこんな危ない運転、絶対にしない。いや、したくても怖くて出来ない。

 

かく言う私も今思えば20代の頃、特に研修で富士山の裾野に住んでいた頃は結構、いやめちゃくちゃに無謀なことをしていた。かなり冷え込む所だったがこの運転手同様冬用タイヤなど装着したとはないし、ある時など2台の車でドライブに出掛けたのだが一方の運転者は「俺は120キロ以下で運転したら眠くなる。」なんて怖い事を言う。道に不案内な私は必死の思いで付いて行ったものだ。

 

今なら絶対に考えられないが私の車(5人乗りセダン)に7.8人それも全員酔ってぐでんぐでんの状況で宿舎に帰り着いたことも2回や3回ではない。何故そんなに飲んだか。勿論酒好きというのもあるが、帰り道に通る有料道路の料金所の係員が夜の10時に帰るので、それまで飲み続けよう!・・・一体何を考えていたことやら。

 

当時は今ほど飲酒運転が厳罰ではなかったが、もし検問に会っていたらどうなっていたことか。全員超の字の付く一流企業の社員、もしくは中央官庁のキャリア官僚。うやむやにしてくれたか、マスコミに漏れて徹底的に叩かれたか。もし後者だつたらその後の私の人生も大きく変わっていたことだろう。

 

富士山への登山もそうだった。ある朝突然誰かが(私だったかも知れない。車を持っていたのは私だけだったから)言った。「今日富士山登れへん?」

 

私含め5人で行くことに。新五合目に着いたのが10時頃か。登山用の服や靴など持っている者など一人もいない。ジュース2本買って登山開始。しんどかったとか怖かったという思い出があまりないのも若さゆえか。富士山に登ったのは後にも先にもこれ一回だし、これから登る気力も体力もないから多分生涯唯一の登山行となるだろう。

 

山頂を一周し(日本最高峰富士山剣ヶ峰三七七六米という標識の前でピースサインをする写真が残っている)、下山は殆ど早駆け、スキップ状態だった。足を挫いたらどうしようなど頭になかった。そして夕食前には帰って来た。唯一の誤算はその夜から頭が痛くなったことで、これは余りに急な高低差を降りて来たことによる高山病らしかった。

 

靴も服も登山用ではない、山頂までどのくらい時間がかかるかも知らない、無謀と言えばこれほど無謀な行いもないが、逆にこんな道具が要る、こんな難所がある、この位時間がかかるなどの予備知識があったら登山そのものに尻込みして行こうという気になっていなかったかも知れない。

 

無計画な登山、ましてや危険な運転などもっての外だが長い人生の中では時には後先考えない無鉄砲な行いも必要なのではないだろうか。

 

この言葉、誰よりも若き日の自分、特に異性へのアプローチが全く出来なかった不甲斐ない自分に送ってやりたい。

生き残る店

聞きたいことがあって銀行に電話するといつも担当してくれていた人が転勤したとのこと。連絡くらいしろよ。まあ、それ程のVIP客とは見られていなかったのだろう。幾分不機嫌な気持ちで出がけに郵便受けを覗くと「特定記録郵便」という馴染みのない封書が届いている。開けるとなんと先日応募したエバ・グリーン(エバ)x月桂冠酒造の合同キャンペーンの当選通知書と商品券1万円分が入っていた。人間の小さい私はたちまち機嫌が良くなったことは言うまでもない。

 

これを読んでくださっている皆さん、エバ月桂冠よろしく。

 

正直言って私はこの種のあたり物には比較的運がいい。前にも書いた「神秘十字線」が両手にあるお陰だろう。

https://www.balangan.jp/wp/column/shinbizyuusen/#:~:text=%E7%A5%9E%E7%A7%98%E5%8D%81%E5%AD%97%E7%B7%9A%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E7%9F%A5%E8%83%BD%E7%B7%9A%E3%81%A8%E6%84%9F%E6%83%85%E7%B7%9A,%E3%82%82%E6%9C%9F%E5%BE%85%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%80%82

 

商品券の遣い道だが、幸いエバ酒類の品揃えが圧倒的だ。和歌山県民のお酒の全消費量の65%くらいはエバで売られているのではないだろうか。知らんけど。

 

日本で酒のディスカウントが始まったのはいつ頃だっただろう。それまで酒は今の本のようにスーパー、小売店、コンビニどこで買っても同じ値段だった。いや業態の種類だけではない。例えばビールの大ビン1本と言えばキリンもアサヒもサッポロも同じ値段ではなかったか。1985年アメリカに行った時、ビールの値段が店によって、またメーカーによって異なることに驚いたことを覚えているからまだその頃は日本では酒は定価販売だったのだろう。

 

時期ははっきりしないがとにかく日本でも酒の値段がオープンになった。25年くらい前だと思う。当時私は滋賀県に住んでいたが滋賀にも和歌山にも雨後の筍の如く酒のディスカウント店がオープンした。それまではスーパーの片隅、或いは街の小さな酒店しか無かったのが小さなスーパー1店まるごと位のスペースが酒、酒、酒なのである。楽しくて仕方なかった。ディズニーランドに初めて行った時ですら(後にも先にも1回しか行っていないが)こんなに嬉しくなかった。1時間でも2時間でも飽きることがなかった。妻には呆れられたが私も衣料や化粧品の店には5分も居たくない。

 

滋賀、和歌山どちらにも贔屓の店が出来た。会員証も作った。10万円の買い物で千円分の商品券を貰った時は我ながらよく呑んだものよと自分で自分を誉めた。

 

翻って今現在それらの店はひとつも残っていない。我ながら痛恨事なのはそれらの店名を全く覚えていないことだ。滋賀でよく行っていた店のひとつは「むらさき屋」ではなかったかと思うが確信はない。

 

滋賀県の現状は知らないが和歌山にも酒のディスカウントを名乗る店は他にも2.3店ある。しかしエバと比べれば横綱と平幕くらいの差があり、実質エバの一人勝ちと言ってよい。そう言えば滋賀にあった店を思い出した。「リカーマウンテン」という店。これは今でもバリバリの現役店だ。通販サイトでよく見かける。私はリカマンは殆ど利用したことがない。理由は一言、高かったから。

 

その頃エバは既に開業していたのだろうか。和歌山市に出店していたのだろうか。記憶にないところを見るとリカマン同様高かったのかも知れない。現に今でもエバはけして安くはない。皮膚感覚で言えば安い順に10人並んだら3〜4番目くらいだろうか。やはり品揃えが売り上げに大きく貢献していると思う。

 

滋賀、和歌山両県で私が贔屓にしていた店に比べると明らかにリカマンやエバは高い。でもこの両店が残って安かった店が廃業した。

 

この当たりに商売の難しさ、厳しさを感じると共に、もう一度あの楽しかった大型の酒専門店が出来て欲しいと心から希望するものである。