就職活動の思い出3

前回の結びで「オンキヨーに行ければ充分」と書いたが、結局それ以降受けたのは松下電器だけだった。

 

話は変わるが、当時はオーディオ全盛の時代で、専業メーカーでもパイオニア、トリオ(現ケンウッド)、サンスイのいわゆるオーディオ3羽カラス、他にもデンオン、オンキョー、テープデッキ専業のナカミチティアックなど。大手家電メーカーも松下のテクニクスはじめ、それぞれオーディオ用の特別ブランドを持っていた。下記する。

日立:ローディ、東芝:オーレックス、三菱:ダイヤトーン、三洋:オットー、シャープ:オプトニカ など。幾つか覚えているのはないだろうか。

 

時代の流れとは恐ろしいもので、その後数年を経ずしてオーディオは斜陽産業の代名詞と化していく。上に挙げた各社もそれぞれ数奇な運命に弄ばれることになるが、今なおオーディオを愛好する者として詳述するのは忍びない。

 

就職のような本当に大切な時期に大した情報収集も活動もしていなかったのは先に書いた。松下電器が頭に浮かんだのも、同じゼミのH君がふと洩らした一言、「松下なんかに行けたらええなあ。」がきっかけである。それまでまったく念頭になかったが「あっ、それいただき!」という軽いノリ。(そのH君がいざ蓋を開けると公務員になっていた。私は桑田に裏切られた清原の心境を彼の何年も前に味わった。)

 

さて、10月1日の面接解禁日がやってきた。松下電器にとっても私の母校は特別な存在だったようで、母校だけの為の面接会場を天王寺のホテルに設けてくれた。

後日談。そのことを知らずに門真の本社に行った者に聞いたのだが、行くと待合室が私大と国公立大に分かれており、前者は入り口に缶ジュースが置かれていただけだったが、後者には女子社員がグラスに入ったジュースを一人一人に出してくれたとのこと。

 

何故この頃かくも国公立大が厚遇されたか。もちろん平均レベルが水準以上というのもあるだろうが、それなら今も変わらない筈。私見であるが、私大生はとにかく遊んでばかりで勉強していないという企業側の思い込みがあった。それと間違いなく大きかったのは企業の幹部にも国公立大のOBが多かったことだと思う。

 

10月1日は会社から来ていたのも全員、母校のOBばかりで、面接というより、履歴書の書き方や面接の受け答えのノウハウなどを教わった。同ゼミの先輩がいたら履歴書の「当社の知り合い」という欄に名前を書いてもいいよとも言ってもらえた。私の先輩はいなかったが、つくづく先輩とは有難いものだ。

 

門真の本社に行ったのはその何日後だったか。順番が来て通されるとかなり広い部屋の向こうに5人座っていた。何をやりたいかの質問があり、「できればオーディオ部門に行きたい。」と答えると「テクニクスの業界における評価はどうか。」と聞かれたので過分にならない程度に誉めた。「それは、どうも有難うございます。」と応じてくれ、全員破顔一笑、一挙に場が和んだ。私はこの瞬間、やった!(合格)と確信した。

 

帰り際、「この後もどこか他の会社に行くのか。」、「いや行きません。」、「なぜか。」、「実はオンキョーに内定を頂いています。」、「両方合格したらどちらに行くのか。」などのやり取りがあった。

 

その日の夜、松下電器から内定の電話を頂いた。印象的だったのは「オンキョーさんにはくれぐれも失礼のないようにお断りするように。」と言われたことで、私が面接時の最後に言ったひと言を覚えていたのだと驚いた。

 

11月の選考解禁というのはあくまで名目で、これを持って私の就職活動は完全に終わりを告げたのである。大学受験について書く機会があればまた触れると思うが、人生の大きな節目がこんなにお気楽、安易でよかったのだろうか。