流されやすい我々

「選手の安全確保できない」センバツ史上初の中止

後世の日本人がこの見出しだけ見たら、何を思うだろう。すぐに病気の蔓延ということに思いが至るだろうか。戦争はないにしても、当時の日本ではテロが頻発していたのかと思ったりしないだろうか。大袈裟でなく、今の日本は国民の慌てぶりだけを見るとこの状況に近づいているように感じる。

 

昨日の新聞は震災関連が多かったが、中にこんな記事があった。「銀行に勤めていた息子が職場で津波に飲み込まれて亡くなった。しかし銀行側は殉職を認めない。」

 

これだけ見れば銀行はなんと冷たいのか。殉職を認めてやれと思ってしまう。しかし、銀行とてなにもこの息子だけを冷遇している訳ではあるまい。法的規則に則っての対応と思う。例えば銀行強盗に殺されたのなら間違いなく殉職だろう。自然災害だから認めたくても認められない(見も蓋もなく言えば保険が出ない)、それだけのことだと思う。

 

似た例は他でもある。池田小学校の事件では生徒のトラウマが心配だから校舎を建て直して欲しいという声が挙がった。実際どうなったか知らないが、事故物件という理由でいちいち建て直していたらキリがない。

 

それとたまに聞くのが障害のある我が子を皆と同じ学校で学ばせたいという自分本位な要求。確かにお気の毒ですよ。しかし、そういう子供のために専門の学校があるではないですか。貴方の要求が通ればその為に膨大な税金が遣われるのですよ。いい加減にしてくれませんか。

 

私が勤めていた会社近隣の自治会長さんに聞いた話だが、道にゴミが落ちているだけで役所に電話する人がいるという。犬や猫の死骸なら無理もないが、少々のゴミくらい見つけた人が処理してほしい。その度に役所は清掃車を出さざるを得ず、それは全部税金で賄われることになると。もっともな話ではないか。

 

流されやすい我々はこのようなニュースに接すると、すぐ可哀想、何とかしてやれ、との感想を抱きがちだが、その為に我々の血税が遣われてもいいのかという観点も持って欲しい。

 

少し前のNHKスペシャルで車中生活者の放送があった。アパートが借りれないのでやむなくなのだが、車を持っていると言うことで生活保護は門前払いだという。行政はもっと、こんな矛盾の狭間で苦しんでいる人にこそ目を向けて欲しいものだ。

 

私の初孫も少しく、障害の心配を窺わせる気配があった。つい先般の検査でその心配はなくなったが万一の結果だとしても、他の誰のせいでもないのだから筋の通らない我が儘だけは厳に謹むように指導するつもりだった。

 

いや、ほんと。