籠の鳥

昨日、先日触れたグラミーが亡くなった。早朝6時頃はまだそれ程弱っているようには見えなかったが。まあ、隔離も含め出来るだけのことはしたので、後は手厚く葬ってやるのが飼い主の努めだ。

 

 

 

私はペットを飼うのが好きだし、ある程度得意との自負もある。しかし時折、本当の動物好きなら家で飼うのは良くないのではないかとの思いが頭をよぎることもある。本来なら大海原で、大草原で、あるいは大空を羽ばたいていた筈の動物を狭いスペースに閉じ込めてしまうことの罪悪感だ。猫はまだいい。好きに動き回っている。魚は窮屈な思いをしているかもしれないが声を出さないのでそれ程の罪悪感を感じることはない。

 

問題は鳥だ。家はキンカチョウという鳥を飼っている。小型で可愛い鳴き声が魅力とのことだが”可愛い鳴き声”なんて誰が決めたのか。本人(?)は「ここから出してくれ!」と叫んでいるかもしれない。

 

江戸時代(あるいはもっと前)から、人はペットを飼ってきた。犬、猫、魚、もちろん、鳥も。その中でやはり鳥だけは人の哀愁心を誘うようで、束縛されて自由のない人を表す「籠の鳥」という言葉がある。同タイトルの古い流行歌もあった。私の知る限り、「小屋の犬」とか「水槽の魚」などという言葉はない。(「生け簀の魚」というとまったく違う意味になるし。)

 

コロナの外出禁止令で人影の消えた海外の街角に野生動物が現れ走り回っている映像を見た。日本でも震災の放射能退避でペットや家畜が野生化している地域があった。

 

動物の気持ちを知る由もないが彼らは前よりも幸せなのだろうか。