将来性の塊、その後

新総理に菅氏決定。もっともこの事は出馬表明前、政策も何も語らない内に決定していた。何かおかしくないか。

 

将来性の塊の筈だった私がどのように道を踏み外したか、勿論責任の大半は私にある。今思い返すとケチの付き始めは前述の研修派遣だった。松下としても年に一人の派遣なので本社人事部に移籍の上、出向という大掛かりなものになるのだが、官僚的な本社との人間関係が上手く行かなかった。例えば私が何か要望(研修所が人里離れた辺鄙な場所だったので自家用車を持ちたいとか)を言ったとする、すると彼等は二言目には「会社のお金で研修させてもらっているのだから〜。」という返答を寄越す。それに対して私も「何もこちらから頼んで研修に来た訳ではない。私は今の研修を仕事と思っている。そんな言い方は止めてほしい。」と返す。今思えばさぞや本社もエライ奴を研修に行かせてしまったと後悔しただろう。(建築家の安藤忠雄さんが東大で教鞭をとることを頼まれた時、給料はいくらか聞いたら、そんな事を聞いてきたのは貴方が初めてだと驚かれたと言う。東大で教えられること自体が名誉だから給料なんか聞くなという事だろう。)私も安藤さんの感覚に全面的に賛成だ。

 

同じく面接で失敗したことはないと前述した。しかし、これも良し悪しでこんなこともあった。今もあるか知らないが当時の松下電器にはオープンチャレンジ制度というものがあった。希望の異動先があれば(要項は社内新聞に掲載)、休日に先方と面談し、受け入れOKとなれば現職場の意向に関係なく強制的に転勤出来るというもの。1991年、当時在籍していた事業場での限界を感じていた私はオープンチャレンジに応募、面談してもらったが、希望していた職種が既に埋まったと聞き、「では今回はご縁がなかったということで。」と引き上げてきた。すると翌月曜日、所属部長から人事部に行くよう促された。何事かと馳せ参じると人事部長に会議室に呼ばれ開口一番「お前、○事業部のオープンチャレンジに行ったらしいな。お前は色良い返事せんかったらしいけど向こうがどうしても来て欲しいと言うてきてるんや。どうする?」…。

 

この時点で既に私が今の職場から出たがっていることが(上司にも人事にも)バレた。それだけでも大ダメージ、この後事態は想像をはるかに超える悲劇的結末を迎えるのだがその事について書くのは余りに忍びない。思えばこの時に私の会社生命は実質上断たれてしまっていたのだと思う。

 

そもそもは面談での私の印象が良すぎたが為に巻き起こった悲劇だ。モーツァルトは神に愛されすぎたが故に35歳で天に召されたと言う。私も危ないのかも知れない。今はただ神秘十字線にすがるのみ。近い内に墓参りに行こう。