タイトルは北島康介選手の言葉ではない。
長い大相撲の歴史でも古今五傑に数えられる大正時代の横綱、栃木山は引退から6年も経った大日本相撲戦士権大会に出場、現役の幕内力士を次々と打ち破って見事優勝した。
上岡龍太郎さん死去。今、急に聞かされて突然のことに言葉が出ない。上岡さんと聞いて先ず思い出すのは横山ノックさんの葬儀でのこの弔辞だ。
この時、既に引退していた上岡さん、都はる○やキ○ンディーズのような軽いノリで引退を口にした訳ではない。本当はカメラの前に出ることは本人も気が進まなかったに違いない、しかし長年労苦を共にしてきたノックさんの弔辞となれば上岡さん以上の適任者の居よう筈もない。やむにやまれぬ気持ちでマイクの前に立ったことであろう。しかし、一度話し始めるや・・・。後は動画とコメントを見て欲しい。
驚くべきはこれが7年前に引退し、一度も公の場で話したことのない人の喋りだということだ。上記の栃木山同様、本当に偉大な人はどれほど凄いのかということを嫌というほど思い知らされる。
今日の○日新聞デジタル版に
「友達100人できるかな」が生む新たな孤独(?)という見出しを見た。クリックした時は何故か関係のない記事が出て、戻した時にはその項目が消えていた。だからうろ覚えに想像を交えて書く。
言わんとすることは分かる。歌詞では「一年生になったら友達100人できるかな」と歌っている。でも僕には友達が100人もできそうにない。やっぱり僕は駄目な人間なのだと思い悩む。そんなところだろう。
あくまで私のうろ覚えと推測が正しかったらとしたらだが、こんなことを言い始めたらもう何も言えなくなる。
「咲いた咲いたチューリップの花が」→僕はうまくチューリップを育てられなかった。駄目な人間だ。まあ、これは駄目な奴か。もう突っ込む元気もない。
こんなことを記事にして何をしたいのか?寝た子を起こしていい場合と良くない場合があることを考えてくれ。