映画『ひまわり』

先週紹介した茶そばが丁度無くなったのでストックを買いに最寄りの業務スーパーに行ったがなかった。その時はあまり深く考えず、後日別件で出掛けた際に隣町の業務スーパーに立ち寄ったがやはりない。それもよく見ると一時的な在庫切れという感じではなく、商品棚から茶そばの文字が消えている。しまった、私のブログを見た人たちが一斉に買い占めに走ったに違いない。あんなこと書くんじゃなかった。誠に厚かましい妄想だが一瞬私の脳裏にそんな思いが浮かばなかったと言うと嘘になる。

 

そして今日いつ大雨が振り始めるか分からないという天気予報の元、辿り着いたのは3軒目の業務スーパー。あった!良かった。

 

それにしても欲しいもの、いつも買っているものが手に入らなかった時の私の行動力を一体何に例えよう。会社員時代、毎週週刊文春を買うことが決まりになっていた。いつもは木曜日の朝、最寄りのコンビニで買っていたが10数年の購読期間中に売れ切れていたことが2回あった。1回は某女子体操選手の統一教会問題、もう1回は何だっただろう。田中眞紀子?いや、あの時は田中眞紀子が圧力が掛けて販売出来なかったのだから違う。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%9C%9F%E7%B4%80%E5%AD%90%E9%95%B7%E5%A5%B3%E8%A8%98%E4%BA%8B%E5%87%BA%E7%89%88%E5%B7%AE%E3%81%97%E6%AD%A2%E3%82%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

もう一回は何だったか忘れた。ただ言えるのはひとつの店で売り切れていると、先ずその近辺の店は全て売り切れているということ。この時も会社への途中のコンビニ全て立ち寄ったが全部アウト。さすがに週刊誌を買うために休む訳にもいかず、こうしている間に他の書店からも消えていくのだと思うと気が気でなかった。今だったらLINEひとつで家族に頼めるのだが。

 

そして会社帰り。一体何軒の店を廻ったことだろう。私はあまり残業する習慣がなかったので家族には不思議がられた。この2回の結果は良く覚えていて1回は何軒かの店で無事ゲット出来た。もう1回はどうしても手に入らず実家に頼んで翌日の朝一に買いに行ってもらった。あまり誇らしい話ではないが当時の和歌山は週刊誌の発売日が1日遅かったのだ。

 

 

高校の同窓会への参加を決めて、今一生懸命その頃の記憶を思い起こしている。何年か前、自分の生まれた年が戦後僅か14年だったという当たり前の事実に気付いて我ながら愕然としたことがある。今から14年前といえば2009年。ウサイン・ボルトが100メートルで9秒58というとてつもない記録を叩き出した年。我々の感覚で言えば昨日のようなものだ。その伝で言えば我々の高校入学も戦後僅か30年。戦争で命を散らした若者の多くが20~30歳だとすると一家の大黒柱を亡くした所謂戦争未亡人は50~60歳。今の我々より若い。当然70~80代の親世代もまだ多く生存していた。そんな時代に我々は高校生活をスタートさせていたのだ。

 

さて、高校時代の思い出と言って最初に思い浮かだのは入学間もない頃に県民文化会館で行われた映画鑑賞会。作品は「ひまわり」だった。言うまでもなく戦争に人生を狂わされた夫婦を描いた名作。画面いっぱいに広がるひまわり畑がウクライナでの撮影だったという事が喧伝され、若い人も聞いたことがあると思う。

https://youtube.com/watch?v=mTdW2hP_t54&feature=share

 

この鑑賞会が何故思い出に残っているのか。実は私、この映画のラストシーンと音楽で完全に涙腺崩壊。皆に泣いた顔を見られるのが嫌で館内がまだ暗いうちにコッソリ抜け出し、家まで飛んで帰った記憶があるからだ。今でこそすっかり涙もろくなった私だが、何故高校生のの私がこの映画にこれほど涙したのだろう。

 

この作品、1970年公開だから今思うと随分昔の映画のように思うが鑑賞会の時点ではまだ5年しか経っていない。そして上に書いたようにまだこの時は戦争は過去の出来事では全然なかった。そんな日常からの思いが無意識のうちに私の身体全体に染み込んでいたのだろう。そんな思いが高校1年生の私をしてあれほど落涙させた、そうに違いない。