渡辺市民課長

ゴッドファーザー」や「太陽がいっぱい」の音楽を手掛けたことで知られるイタリアの作曲家ニーノ・ロータが来日したのは1975年。映画音楽の大ファンだった私は親にねだってけして安くはなかったであろうチケットを買ってもらい、コンサートを見に行った。だが今、ここで特筆しておきたいのはそんな自慢話ではない。全国でおそらく10箇所もなかったと思われる公演先のひとつに和歌山が選ばれていた、というその事実である。今、海外から有名アーティストが来て日本公演を行う場合、果たして和歌山はその中に入れてもらえるだろうか。

 

コンサートのことも鮮明に覚えているが当日買ったパンフレットにこんな一文があった。「映画に於ける音楽の役割は非常に大きい。黒澤明も盟友早坂文雄が亡くなった時、まるで片腕をもがれたようだと言って嘆いた。」

 

その早坂文雄黒澤明の会話を収録したCDが発売されるという。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/cinema/20231214-OYT1T50205/

買いたい気持ちはあるがちと高い。

 

黒澤明監督の最高傑作のひとつ「生きる」の序盤にこんなシーンがある。

 

主人公は定年間近の市役所の万年市民課長、名前は渡辺。部下からも上司からも完全に馬鹿にされている。ある日課内を一通のメモが回覧され、皆それを見て笑っている。その現場を目撃した渡辺氏、何が書かれているか読みなさいと一番若い女子職員に命じる。最初は渋っていたが再度の催促に渋々読む。

 

「おたくの市民課長は何があっても絶対に休まないそうだね。」

「ほーっ。そんなに彼がいないと困るのかね?」

「いや、休んでも誰も困らないことがバレるのが怖いので休めないのさ。」

 

 

昨日岸田内閣の閣僚が大量辞任した。これ程の人数が一度に更迭されるのは私もちょっと記憶にない。おそらく戦前のきな臭い時代以来ではないだろうか。戦前の閣僚の大量辞任は一挙に時代が変わっていく転換期に起こっているが今回の辞任劇、何の混乱も起こっていない。あるとしても自民党内や派閥に多少の波風が吹く程度で何か政治的な停滞が起こるとか、日本の国際的な信用に傷がつくなどの影響は一切起こっていない。

 

大臣や長官と言えば会社で言えば社長。民間企業で社長が辞任となれば業績や株価に多少の影響は避けられないところ、政治家は辞めても何の混乱も起きないこの現実を喜ぶべきか嘆くべきか。日本の政治家が全員「渡辺課長」化してしまっているのだろうか。

 

いや、「生きる」の渡辺課長は余命を知らされたことに発奮し、最後に一世一代の大仕事を成し遂げる。日本の政治家も同じような覚悟と気概を持って職務にあたって欲しい。