牛丼

私のブログに何度か登場した友人のM君、グルメサイトへのヘビーライターという別の顔も持っている。当然食に関することには詳しいし、実際今でもよく食べ歩いているようだ。

 

そんなM君がある時言った。「生まれて初めて牛丼を食べた時は世の中にこんな旨いものがあるのかと感激した。」

 

だいぶ前になるが私も当地の吉野家オープンに駆けつけた時の話を書いた。あれから40年近く経っているが、有難いことに牛丼は殆んど値上げしていない。と言うか値下げしている。昨日何ヶ月振りかで牛丼をお持ち帰りで食べた。JAFのクーポンがあるので妻、母親の分合わせて並3杯で丁度¥1000位。今時のませたガキならクスりともしない金額だ。

 

少し冷めていたのでレンチンして一口。…旨い、それしか言葉が出ない。しばらく食べていない内に一段とうまくなった?そんなことないだろうがとにかく旨い。

 

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」

束の間の藤原道長気分に浸る私であつた。

 

亡くなった作家の藤本義一さんによると「大阪人(この際関西人と言ってもいいだろう)が旨い、と言う時は旨くて安いという意味」だそうだ。その点でも文句なし。私が毎夜の晩酌の肴にしているお造りの盛り合わせ一舟の値段で牛丼2杯食べられるのだから堪らない。だからといって酒も刺身も止める気はないが。

 

因みに妻は他人に自慢出来るほどの努力家で意思が強い。食事もさぞかし辛かろうと思うが強靭な意志の力でセーブし、何とか合格点のボディラインを保っている。昨夜も牛丼を半分だけ食べ、残りは明朝と言っていたのに、ふと気付けば空になっていた。

 

げに牛丼の魔力は怖ろしい。

 

 

横綱

横綱審議委員会白鵬鶴竜の両横綱に上から2番目に重い「注意」を決議。

 

理由は余りに多い2人の休場。12場所中、途中も含めて8場所の休場は確かに多い。

 

これだから外国人横綱は、とはうつかり言えない。何しろ今のところ最後の日本人横綱○があのざまだったから。(横審は彼にも注意したのだろうか?)。

 

野球やサッカーは興味を持ったことがただの1度もないが、相撲は曲がりなりにも中学〜大学に掛けて実に熱心な視聴者だった。受験勉強の最中もテレビは最初から最後まできっちり見ていたほどだ。

 

短文だが少し触れた次第。

真剣、怖くなってきた

当地、和歌山は徳川御三家のお膝元ということもあり、昔から一般庶民の態度も大きかったらしい。「紀州様とは及びもつかぬ、行こらいのらで気が付いた」。江戸時代の短歌にもある。(いのらは帰ろうの方言)

 

父親の世代はまだその名残りがあったのだろう。「この前○へ行って、和歌山から来たて言ったら、岡山?て聞かれた。あんな所と間違われてかなわんわ。」などと言っていた。

 

先日の九州旅行の折、のぞみ車中から見た岡山市の大きさには心底驚いた。月とスッポンではとても追い付かない。父が生きていて今の岡山を見たら何と言うだろうか。

 

コロナの第3波が猛威を奮い、遂に大阪市と札幌市がGO TOの一時除外を申し出た。経済のことを考えれば断腸の決断だったであろう。

 

コロナは罹るのも怖いが、半数以上に出ているという後遺症がまた怖い。味覚障害や嗅覚障害ならまだしも(いや、これらも充分怖いが)、頭痛、呼吸困難、毛が抜ける(これは余り怖くないか?)、しかも人に寄っては数年〜一生続くかも知れないと言うことを聞き、これは他人事ではない。と真剣に考えるようになった。

 

昨日のテレビ番組である看護師さんが言っていた。「1波、2波の時はコロナかも知れないから検査して欲しいという人が多かったが今回はコロナだと分かったら怖いので調べたくないという人が増えた。」うつかり聞き流してしまいそうだがこの発言は実に怖い。

 

その点、まだしも和歌山はマシだ。1日の陽性発生数が2桁になったのが2,3日。毎日数百人単位で発生している大都府県住民の恐怖や如何ばかりのものか。

 

つい数日前、湯布院や黒川温泉に比べて和歌山の観光業はアホだと苦言を呈したばかりだがアホのお陰で今は幾分気楽な日々を送れている。

 

 

 

 

 

偶にはクラシックの話題

NHKの「偉人たちの健康診断」という番組、ベートーヴェンの回だったので途中から少し見た。丁度ベートーヴェンとそれ迄の音楽は何が違うかという話をしていて、解説者がモーツァルトまでは貴族のための遊興音楽だったとトルコ行進曲を弾き

https://www.youtube.com/watch?v=exhiil4J5NU

(これなら食事しながら聞けますねとゲストの声)、

処がベートーヴェンはと悲愴冒頭を弾いた。

https://www.youtube.com/watch?v=jHIUEmKpRZY

(こりゃ食べ物吐き出しますね、同)

 

つまり、ベートーヴェン以降音楽がただ楽しむだけのものから、作曲家の思想、意思が強烈に込められるようになった。概略こんな説明だった。間違っているとは言わないし、そう思っている人も多いだろう。

 

しかし少しクラシック音楽を聴き込んだ人は皆言う。「モーツァルトの音楽ほど怖いものはない。」誰の言葉か忘れたがモーツァルトの音楽は「亡くなった子供らが天国で戯れているよう」。確かにそんな趣きがある。私もそう思っていた一時期があった。

 

今の私はそれも一面的な聞き方に思える。と言うか「こんな音楽なのだ」と先入観を持って聞くのは危険だと思うようになった。その曲、その演奏、その時の気分でもっと自由に聞けば良い。モーツァルトベートーヴェンに限らず、いやクラシック音楽に限らずそんな風に聞くのが音楽本来の楽しみ方ではなかろうか。

 

モーツァルトについては、どれだけでも書けそうなので私が彼をどう思っているか、ヤフー知恵袋への私の回答で締めたい。質問は「全ジャンル、全時代の作曲家の両横綱は誰と思いますか?私はベートーヴェンジョン・レノンです。」というもの。

 

私の回答は「横綱の1人はモーツァルトで決まりでしょう。でも偉大すぎて片側の横綱候補が見つかりません。ここはクラシックの方は親方に退いてもらってずばりジョン・レノンポール・マッカートニーでいいのではないでしようか?」

ベストアンサーには選ばれなかったが、私の考えは全く揺らがない。

自分で自分が嫌になる

毎日楽しみに見ている「水戸黄門」。今放送中の黄門様は佐野浅夫さんだが、金曜日から里見浩太朗さんに代わる。里見さんには悪いが見る気がしない。里見さんはどうしても助さんのイメージだ。男前過ぎるし、強過ぎる。下手すりゃ助さん角さんより強そうだ。

 

ああ、これから何を楽しみに生きていけばいいのか。大袈裟でなくそう思う気持ちが少しある。

 

旅行に行った時もそうだ。その地でしか見れない番組があれば優先的に見ればいいものを、私は避けてしまう。面白くなけれは良いが、もし面白かったら次回以降見れないことが辛いのだ。

 

スーパーでの買い物で割引きシールの貼られた商品を買うのが大好きだ。1点しかなかったら買うのに躊躇はないが、何点もあったら途端に買う気が失せる。そして家に帰って反省することになる。

 

コップに水がまだ半分あると捉えるか、もう半分しかないと捉えるか、の例がよく引かれるが、そんな単純なものではない。どうすれば木曜日までの水戸黄門を楽しもうと思える性格になれるのだろうか。

 

 

 

韓国。この…なる隣人

私が韓国に行ったのは昭和62(1987)年冬。オリンピックを翌年に控え、ソウルの街は五輪一色だった。

 

ツアーの内容は今でも覚えている。往復の飛行機とホテルまでの送り迎え、2泊3日素泊まり、観光なしで¥58000だった。

 

空港に着いて目印の旗の元に集まったのは15-20人くらい。ガイドは40歳位の女性だった。「ほな、僕らはここで。」全員の人数確認が終わると数人の中年男性が抜けて行った。見るとそれぞれに若い女性が迎えに来ていて、待たせていた黒塗りの車に乗り込んで去って行った。

 

事情が分かったのは帰りに再び空港に集まった時。空港に来ていたのはおっさん達の愛人で、2泊3日を彼女と自由に楽しんだのだ。「それなら自分で航空券を買って来たらいいのでは?」、「自分で買ったら飛行機代だけでツアー費より高い。」…納得。

 

また触れる機会もあると思うが、韓国には色々と腹を立てさせられることも多い。しかしほんの30年くらい前、日本人(少なくともおっさんの何割か)は韓国をそんな風に扱ってきたのだ。当然多くの国民は気付いていただろう。そのことは我々も知っておく必要があるように思う。

 

他のメンバーは空港からホテルを目指した。夕方になっていた。「先に土産物店に寄ります。」着いたばかりで何故?理由はすぐ分かった。店に入れば各々グループに分かれる。私と友人にガイドが声を掛けてきた。「お兄さんたち、今晩予定ある?」特にないと答えると「ではロビーに○時に来て。」夜の街へのお誘いだった。

 

最初に入った店で夕食を食べている部屋にかわるがわる女性が入って来た。数人ずつ数組。ガイドはずっと横に居た。「○組目の○色の服の子」それぞれ指名すると店の入口で彼女らは待っていた。

 

詳細には触れないが、純粋にガイド代わりとしても彼女らがいてくれたことは幸いだった。韓国に行く前、そこそこ日本語が通じるだろうと思っていたが全くと言っていい程通じなかった。英語も通じたのはホテル内くらい。漢字は共用だから分かるだろうと考えていたが、街で見かけるのはハングルばかり。あんな丸書いてちょんみたいな文字分かるべくもない。彼女らが居なければろくに移動も出来なかっただろう。

 

ソウル観光で思い出すのは先ず漢江の橋を渡った時の風の冷たさ!冬の北海道にも行ったことがあるがもっと冷たいと感じた。2番目はカラオケ。彼女らも店の女の子も私達の知らない日本の最新ヒット曲をよく知っていた。「ええっ。まだ(東京)ディズニーランドに行ったことないの?」彼女らに茶化されたが、むしろ嬉しかった。3番目は焼き肉を食べに行った時のこと。彼女らは焼くばかりで食べようとしない。何故食べないのか聞くと「この店はとても高いので私達が食べるのは申し訳ない。」泣かせやがって。これが彼女らの高等戦術とは思いたくない。

 

ありゃ、観光地の思い出が何もない。でも、本当に思い出せない。いったい何をしに行ったのやら。

 

何年も後に知ったのだがこの頃韓国ではまだ日本の本や歌は禁止されていた。当然日本語の教育もされていなかつただろう。なのに私達は韓国人の多くは当然日本語を話せるだろうと勝手に思い込んでいた。既に戦後40年以上経っていたのに併合時代の正の名残りがあるものと勝手に思い込んでいたのだ。

 

自分で自分が恥ずかしい。おっさん達の所業を非難出来る立場ではない。

三島由紀夫氏 没後50年

三島由紀夫氏が割腹自殺を遂げて25日で50年。私は11歳だったが子供心にもかなりの衝撃を受けたようで、当時の新聞、雑誌に載っていた記事は今でもよく覚えている。

 

ある新聞は自殺を遂げた部屋の現場写真を載せた。写真の隅に何やら1cm四方に満たない小さな影が2個写っている。よく見ると三島氏と介錯をした二人の首だ!余談だが母の友人に強度の近視の人がいて、いつも棟方志功氏(下図)のようにして新聞を読むのだが、当該記事でそれが生首の写真だと気付いた時は仰天して腰を抜かしたという。

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またある週刊誌は首のない遺体写真を2ページにわたる白黒グラビアに掲載した。演説をしたときの軍服姿のまま横たわっていた。

 

極めつけは1984年発売のFriday(写真週刊誌)創刊号。何と三島氏の生首のアップ写真を掲載した。関係者が保管していたものが見つかったという。この本は今も手元にある。

 

それにしても今なら新聞や書籍にこのような写真を載せられるだろうか。果たして彼らは遺族の許可を取ったのだろうか。何もかもが”いい加減”だったように思う。それが悪いこととはけして言わない。いや今のやたら自主規制の名の元、金縛りに陥っているマスコミより余程健全だったのではあるまいか。

 

偉そうに書いたが私は三島氏の著作一冊も読んでいない。(教科書に載っていたら読んだかもしれないが覚えていない。)読んだのは発言集のみ。特に印象に残っているのは「先日会った東京都清掃局職員に圧倒された。人生を一番根源のところで捉えているという深みがあった。彼らの前に立つと自分などただの”汚物発生器”にすぎないと思えてしまう。」というもの。難しい文章を書いたり、高尚な言葉を紡いでも所詮は自分の頭の中で空想したもの。実際には自身の汚物ひとつ処理できないことへの痛切な恥じらいがあったのだろう。

 

コロナ被害が特に深刻な札幌市で職や家を失った人を助けるボランティア活動を行っている人を取り上げた番組を見た。無事職を得て、初めての給料でお礼にジュースを買って施設を訪れた男性に掛けた声が印象的だった。

 

「給料って何だと思う?」

男性答えて「頑張った自分へのご褒美だと思います。」

「違う。給料は我慢代だ。だからこんなことにお金を使ってはいけないよ。」

 

いつの時代も地に足のついた言葉は重い。