近くの書店でそれとなく書架を見ているとこんなタイトルの本が眼に飛び込んできた。
「我が相撲道に一片の悔いなし 稀勢の里自伝」
読まなくても内容は大体想像がつくので手には取らなかった。
稀勢の里自身が好人物であることは多分間違いない。でも、こんなタイトル(多分本人の発案ではあるまい)を臆面もなく認める、その神経は理解できない。
甲子園に出れなかった球児、幕内に上がれなかった力士など、大成できなかった人間が「一片の悔いなし」と言うのなら分かる。しかし、稀勢の里は横綱まで上り詰めた人物である(全入門者のうち横綱になるのは何千人にひとりとか)。うん十年ぶりの日本人横綱としてかつてないくらいマスコミにもてはやされたことは皆の記憶にも新しい。
私は相撲の歴史には少々詳しいが、こんなひどい成績の横綱は江戸時代以来ひとりもないし、今後現れる可能性も極めて低い。通算成績で勝率5割以下の横綱は過去にもいたが、彼らはすぐに引退し、稀勢の里のように在位期間の大半が休場などという醜態は晒していない。申すまでもなく相撲はスポーツである以前に神事であり、横綱はその最高位である。即ち、横綱の地位を汚すということは神を冒涜することに他ならない。簡単に「悔いなし」などと言ってもらっては困るのである。
これだけひどい成績しか残せなかった稀勢の里だがテレビで公然と批判したのは私の知る限りたった一人、デヴィ夫人だけ。(それも「わたし、この方にガッカリしましたわ。」と言っただけなのに猛然と反論している者がいた。私はむしろその男の怒りの激しさにびっくりした。)
大半の日本人がそうであったように、この文章に怒りを感じる方もいるかもしれない。しかし、私は言いたい。ならば最初から横綱の推挙を断ったらよかったのだ。怪我が想定外だったならもっと早く引退すべきだったと。このどっちつかずの中途半端な性格が横綱推挙を、そして上記の本のタイトルを認めてしまったのだろう。
相撲だけに限らないが師匠が弟子を叱れない(横綱が居るだけで部屋が経済的に潤うので尚のこと)、そんな風潮がこんな悲劇を生んでしまったのかもしれない。
栃若時代にその名を残す名横綱、栃錦が横綱昇進後、師匠に真っ先に言われたのは「いつでも引退する覚悟で相撲を取れ」との言葉だったという。
何という違いか。