ずっと考えていた

人間は理想的な状態であれば125歳位まで生きられるらしい。もし私がその歳まで生きられるのならまだ折り返し点にも来ていない。

 

まあ、そんな事は夢物語で現実は一生を24時間に置き換えたら今は夕方6時。残るは夜の暗闇のみ。そう考えると嫌でも「自分の人生、これで良かったのだろうか」と考えざるを得ない。

 

何度も触れているが、人間の幸不幸なんて所詮プラスマイナスゼロ、何もかも恵まれるなんて有り得ない、それは分かっている。でも自身の半生(4分の3生?)を振り返ると余りに公私の幸不幸のバランスが悪い。

 

公私の私の方は本当に恵まれた。良き家族、良き友に恵まれた。特に子供とまだ未知数だが孫は本当に私の自慢だ。皆こんな親を反面教師に素直に育ってくれた。照れくさいのでこれ位にしておくが。

 

問題は、公の方である。あれだけ恵まれた社員生活をスタートしたのに、どこでどう間違ってしまったのか。会社を辞めてもう何年にもなるがこの事が頭を離れなかったことはなかったが、最近ようやく原因らしきものの結論が出た。

 

私は昭和57年、1982年に会社員生活をスタートした。約半年の新入社員研修を終え、ステレオ事業部に配属されたのが同年11月。それから2年もしない昭和59年秋、突然研修派遣、それも例年全社で一人しか行っていない外部機関への出向を命じられた。

 

研修期間はおよそ10か月だったが研修費、寮費、アメリカ留学費併せて700-800万円位掛かったと聞いた。実績どころか勤務経験も殆どない私への「先行投資」、自分で言うのも気が引けるが余程将来を見込まれていたのだろう。

 

ただ上にも書いたようにこの研修派遣は松下全社で一人のみ。派遣に当たっては本社人事部に転籍の上、出向という形を取っていた為、お互い殆ど見ず知らずのまま外部に出てしまった。これがまずかった。もし、少しでもお互いのキャラクターを知っていれば「あの人にこんな事を言ったらまずい」とか「あんな事を言ってるが本音はこうだ」とか分かり合えたと思うのだが、知らない者同士、本音と建前の区別がつかない関係は対立しか生まれる道理はなかった。

 

さて、研修の内容も仲間も申し分ないものであったが、研修所の所在地があまりに辺鄙であった。富士山麓の中腹、近くに1軒の施設も店もなく、最寄りのバス停まで徒歩30分、バスも1日2-3本という正に陸の孤島、しかも自家用車を持つことも許されなかった。事故を起こすことを恐れていたのだと思う。

 

会社に寄っては車を持つことを許可されているところもあり、私は会社にせめて車を持たせて欲しいと要望した。

 

それに対する返答が電話だったか郵便だったか、どんな話し方(書き方)だったか覚えていない。が、「給料を貰って研修させて貰っているのだから…」という返答を聞いた時、私の中で何かが弾け飛んだ。気が付けばこんな風に言い返していた。

 

「私は何も希望して研修に来た訳ではない。研修も仕事と思っている。そんな研修に行かせてやっているかのような言い方は心外だ。」

 

思えばこれが全てだった。本社の人事部もさぞや腹を立てたと思う。誰もが望んでも叶わないような結構なご身分でありながら、まだ不満を言ってくるのだから。中小企業なら「今すぐ帰って来い!」と言われても文句の言えないところだ。

 

勿論、一回の舌禍事件だけがその後もずっと尾を引いたかは分からない。今になっては繰り言でしかないが心を入れ替えて(あまり良い言い方ではないが長いものには巻かれろで)、その後の職務を真面目に行っていれば又違う展開もあっただろう。或いは研修の話があった時「せっかくですが希望の事業部に来ていますので」と断っていたら…。しかし私はそうしなかった。会社の冷遇には徹底したサボタージュで応じた。いくら松下電器が大会社でも、そんな人間などまともに相手にはしていられないのも当然だ。

 

今にして思うが、実務2年足らずの私をそんな多額の費用の掛かる研修に出してくれるには余程、強い推薦をしてくれた方が居たに違いない。

 

何よりもこの方に済まなく思う。