天気予報

我々の高校(旧制和歌山中学、現桐蔭高校)の大先輩、西本幸雄さんが晩年語っておられた。「もう和歌山を離れてからの方がずっと長いのに今でもテレビで天気予報が映るとつい和歌山に目が行ってしまうんですよ。」実に嬉しい言葉だ。

 

昔は天気予報といえば和歌山県ならせいぜい北部と南部、午前と午後くらいの区分けしかなかった。降水確率なんてなかった。それで困ることもなかった。それが今はどうだ。スマホに入っているお天気アプリは正に私の居住地ピンポイント(せいぜい100メートル四方)だし、1時間毎の天気、降水確率の予報まで表示される。例えば午後1時の降水確率は34%、午後2時のそれは45%。という風に。これで予報が当たってくれればこんな有難いことはないのだが、まあ、当たらない。自宅を出る時は30%だったから傘を持たずに出掛けたのに降り始めた。慌ててアプリを見直すといつの間にやら80%になっている。馬鹿にされているようで腹が立つ。こんな事が何回あったか。そのせいか最近は天気予報を見ずに出掛けることが増えた。自分で直接空を見て予報する方が余程当たるし、万一外れても判断したのは自分だから諦めもつく。

 

今日チューブの交換をしてもらいに行った自転車屋さんでも天気予報の話になり、その人も最近の天気予報は当たらない、特に雨の予報が出ているのに降らないことが多いと言っていた。二輪の店にとって雨は客足に大きく影響するので実感として感じているらしい。そうか、言われてみれば晴れると言っていて雨が降るより、雨が降ると言っておいて降らないことが多い。確かにそんな気がする。話は変わるが医者の余命宣告は短めに言うらしい。余命半年と言って3ヶ月で亡くなったら「半年と言ったじゃないですか!」となるが余命1ヶ月と言って3ヶ月保てば「よく頑張ってくれました!」となる。そりゃそうだ。

 

最近の天気予報、特にアプリは誰が予想しているのか知らないがAIとやらが行っているのだろうか。もしそうなら迷ったら雨と言っておけば、降らなくても単純な人間どもは腹を立てないだろう、そんな事を考えているのだろうか。もしそこまで考えているとしたら末恐ろしい話だ。

 

最近の天気予報は当たらない、そう書いたが本当にそうだろうか。観測する機器も、技術も格段に進歩している筈なのにそんなこと、あるのだろうか。もし、あるとすれば天気予報への人々のニーズが下がっているからではないか。昔は今より第一次産業に携わる方が格段に多かった。冒頭に挙げた西本さんは言うまでもなく野球一筋の人生を貫かれた方だが昔はドーム球場はおろか、室内練習場なんてものもなかった。彼らにとって天気予報は必要欠くべからざるものだった。やはりニーズがあればこそ人も育つし、技術も進む。

 

では天気予報はもう要らないのか、絶対そんなことはない。私がボランティアに行った紀美野町激甚災害指定が決まった。喜ばしいことには違いないがあの被災の凄まじさを見た者からすれば遅すぎるようにも思う。

 

平常時の雨や晴れはどうでもいい。2時の雨は○%、3時の雨は○%など、ありがた迷惑なだけだ。その分の力を異常気象の予測に振り向けて欲しい。勿論川が氾濫するような大雨は予想されても対応出来ることは限られている。役所は例え無駄に終わっても避難をして欲しいと呼び掛けている。それも間違いではない。でも所詮人間はぐうたらなもの。あれだけ地震に対する備えが呼びかけられているのに実際備えている家庭がどれだけあるか、それを考えるだけで明らかだ。無駄な避難が続けばいつかその呼び掛けもオオカミ少年になるだろう。

 

「天気予報が言うのだから本当に危ないに違いない。今すぐ避難しよう。」ここまで信頼される存在になって欲しい。