有難さが変わった

再来年に迫った大阪万博の予想入場者数は2800万人だという。1970年の万博の半分もない。期間はほぼ同じだし、交通の便ははるかに良くなっているのに最初からそんな弱気でいいのか。

 

と、言いつつそんなものかな、という気もする。70年万博の時、私は小学5年生。正確には覚えていないが少なくとも3回以上は行っている。ひとりや友人同士では行っていないから全て親か親の知り合いに連れられて行ったことになる。つまりその頃の大人は何回か万博に「通って」いる。

 

では再来年の万博、我々はどうするだろう。一度は見に行こうか、という気持ちと面倒だからもういいか、という気持ちが半々というのが正直なところ。行かないかも知れないし、行っても1回だけだろう。何回も通った親世代に比べて明らかに意欲的ではない。では若い世代はどうか。試しに大阪に住んでいる子供ふたりに聞いてみた。ひとりは多分行かないだろうなあという返事。もうひとりは何と万博があるということもおぼろげにしか認識していなかった。地元に住んでいる者ですらこれだ。どうも若い世代は我々以上に関心がないようだ。そして何もこれはうちの家だけの話ではないような気がする。こりゃ2800万人も危ないか?

 

阪神タイガースが18年ぶりに優勝した。マスコミは関西大フィーバーと報じていたが、私の憶えている1985年の21年ぶりの優勝時はこんなものではなかった。何しろ関西のテレビ局、4局が揃ってオールナイトで特別番組を放送したのだから。今だったら大抵のレコーダーがダブル録画、トリプル録画出来るのだがビデオデッキは1番組のみ。どれにしようか迷った挙げ句、読売テレビを録画した。「待った!勝った!泣いた!」というタイトルで上岡龍太郎さんがMC、ヒゲ辻こと辻佳紀さんがサブMCだったように記憶する。放送は深夜0時頃から5、6時間。そして同様の番組が他の3局全てでも放送されたのだ。こんな盛り上がり、今では考えられない。

 

85年当時、娯楽のスポーツはプロ野球しかなかった。Jリーグはなかったし、日本人メジャーリーガーもいなかった。70年万博当時はカラーテレビの発展途上期。ビデオなんて夢のまた夢。パソコンやインターネットなど夢ですら想像出来なかった。私が覚えているペプシ館では入口で筒を受け取る。その筒を耳に当てると音が聞こえてくるのだが床の場所に依って聞こえる音が異なる。ここでは人の声、あそこでは馬の蹄の音、などなど。まるで訳が分からない。子供だけでなく大人も夢中になっていた。

 

こんなパビリオンが大集合しているのだからまるで万博会場全体が夢の玉手箱のようだった。次こそはあのパビリオンに行こう!今度はアメリカ館で月の石を見るぞ!そんな日本人の熱い思いの集積が6400万人という驚異的な入場者に繋がった。

 

大抵のことは自宅で出来てしまい、少々のことでは驚くことのなくなった現代、どんな内容の展示、演し物であれば人々の心を掴み、ときめかせることが出来るのか、残念ながら想像もつかない。

 

極貧の幼少期を過ごしたチャップリンは言っている。「貧乏の頃を懐かしむ気持ちは全くない。ただ目の前に山ほどの大金があるのに欲しいものが何も思い浮かばないのも大いなる悲劇に違いない。」

 

現代の我々、1970年や1985年の頃に比べて幸福になっているのですかねえ。