虚しさ増す

先の「幸福のスイッチ」の件に付き、NHKより返答が来た。曰く、

「配慮すべき表現がありますが、と入れたのは、言葉遣いに対してではなく実在する企業や商品名が出て来るからです。」とのこと。

 

へー、本当かねぇ? ではNHKではなんでアドベンチャーワールドは「白浜町のテーマパーク」と呼ぶくせにディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンを名称のまま呼んでいるのか。それぞれ「浦安市のテーマパーク」、「此花区のテーマパーク」でいいではないか。なんだかんだ言って結局メジャーなものに巻かれているのではないか。もう一度質問しようとも思ったが止めておく。私もそこまで子供ではない。

 

 

先日、ある友人と話をする機会があったが彼はここ数年、ほとんど本を読んでいないらしい。なんでも齢と共に視力が弱り活字を追うのが億劫になってきたとのこと。

 

よく速い球、遠くへ珠を投げられる人を「地肩が強い」と言うが私の場合、「地眼が強い」。この歳まで眼鏡のお世話になったことはなく、今でも新聞を読むのに何の不都合もない。眼科医も子供の頃こそ、めばちこ(ものもらい)でしばしばお世話になったが中学生以降で眼科医に行った回数は2ケタないのではないかと思う。

 

だから私は今でも本を読まない日はない。幸い読みたい本は図書館がほとんど買ってくれるので読む本に不足はない。ただ私は非常な遅読家なので読了するのにかなりの時間が掛かる。このブログがしばしば停滞するのは図書館の本を読んでいるからと思ってもらって間違いない。何しろ人気本は必ず次の予約が入っており期限(2週間)内に読まなければならないからだ。

 

とは言え齢も齢、いつ視力が弱るかも知れないし、眼が元気でも知力、理解力が鈍ることも考えられる

 

私の今までの人生の中で最大最高(最幸)の読書経験はサウジアラビア出張時に持参したドストエフスキー罪と罰」であることは前に書いた。分厚い文庫本2冊の長編、覚えにくいロシアの人名、読みやすい要素は何も無いのにいつの間にか引き込まれ最後の方は出張の残り日数を考えながら読むスピードを調節したほどだった。

 

その読書体験も30年以上も前のこと、罪と罰の登場人物もストーリーも覚えていないが私の人格形成の上で大きな役割を果たしていることに違いはない。本格小説はこんなに面白いのか!誰の言葉か忘れたが「良書は何を措いても読め。読む時間がないというのは読む気がないということの言い訳でしかない。」という言葉は正にドストエフスキートルストイなどの小説のためにある言葉だと確信した。しかし帰国後すぐに買い求めた「カラマーゾフの兄弟」は手付かずのまま本棚に眠っている(汗)。

 

正直に告白する。作家の北杜夫氏が「坊っちゃんは何とか読み終えたが吾輩は猫であるは途中で投げ出した。」と自虐的に語っておられたが、私は坊っちゃんすら読んでいない。私の回りの多くの人が絶対読むべきと力説する「こころ」も読んでいない。私が読んだ小説と言えば中学、高校で教科書に出て来た芥川龍之介中島敦のごく一部。走れメロスも教科書にあった筈だがどんな話だったか全く覚えていない。いや、お恥ずかしい。

 

では私は毎日図書館から借りたどんな本を読んでいるのか。

 

以下続く。