私の飲酒遍歴

私達の世代皆が言うことであるが毎週土曜日半ドンの小学校から帰宅後一番の楽しみは吉本新喜劇を見ることであった。特に人気があったのが岡八郎さんと花紀京さん。だからこの2人の共演ともなるとまるで家に美味しいケーキが待っているかの如く朝からわくわくしっぱなしで授業も上の空。(ここまで入れ込んでいたのは私だけかも知れないが。)

 

以下、ある回の2人のやり取り。岡八郎さんが営む屋台に花紀京さんがやって来る。

 

岡「いらっしゃい。何しましょ?」

花紀「そやな〜。先ず酒もらおか。」

岡「へい、それで酒はビールか日本酒か。」

花紀「あんた、阿呆ちゃうか。」

岡「なんでやねん。」

花紀「当たり前やないか、酒言うたら日本酒に決まってるやないか。」

 

面白いニュアンスが伝わらないのは仕方ないとしてこのやり取りからも分かるように昔は酒と言えばビールか日本酒しか置いていないのが普通でたまにスナックに行くと水割り。ハイボールやチューハイなんてものはまだなかった。

 

大阪在勤時は居酒屋も多いし、電車通勤でもあったので週2、3回は赤提灯をくぐつていた。京阪土居駅近くの老夫婦で営む居酒屋、天ぷらを頼むと大将が「天ぷらはスープかソースか。」と聞いてくる。ソースは卓上のウスターソースを自分でかけるのだが、スープを頼むとたっぷりのおでんの汁をかけて出してくれるのだ。美味かったなあ。あの割れ鐘のような声の大将、もうとっくに亡くなっているだろうなあ。

 

この頃は常習的に飲む習慣はなかったが何しろ若かったので強かった。ある時、東京から転勤してきたWさんが豪語した。「僕は今まで飲み合戦で負けたことがない。」では、と審判ひとりを連れ飲みに行った翌日Wさんが言った。「もう二度と君とは飲みに行かない。」

 

富士宮での研修時代はそれこそ毎晩が酒宴、時効だから書くが5人乗りのセダンに8人位詰め込んで駅前のスナックに何回も通った。勿論運転手も全員酩酊状態。よく死なずに済んだものだ。

 

その後のアメリカ留学でも酒にまつわる思い出は尽きない。最初に驚いたのはビールが銘柄毎に値段が異なることだった。今でこそ同じビールでも銘柄により値段が違うのが当たり前になっているが当時の日本ではアサヒであろうがキリンであろうが値段は全部同じというのが常識だった。私は一番安かったクアーズというビールを専ら飲んでいた。

 

カリフォルニアに居たある日、ワインセラーを巡るバスツアーに申し込んだ。処がいざ出発直前になって「お前は参加出来ない。」と言う。理由を聞くと参加出来るのはアダルト・オンリーだと言う。何のことはない未成年者に間違えられたのだ。当時私は25歳。そしてこれは私の今までの半生の中でも最も嬉しい経験のひとつになっている。

 

アメリカから帰っての赴任地が滋賀県だった。今でこそ滋賀県、中でも会社のある草津市近辺は目覚ましい発展を遂げているようだが当時はそれ程でもなく、何より車通勤になったので外で飲む機会はぐっと減った。かと言って家で飲むことも殆どなく(まだまだ酒欲より食欲だったのだろう)、もしかすると私の胃腸が1番健全な時代だったかも知れない。