才能?努力?

6月の豪雨で被災した下津町の長保寺を訪れた。あれから半年経ち、少しは復興しているものと思っていたらまだ拝観停止中。近くに行けなかったので詳しくは分からないが遠目には全く手付かずに見えた。長保寺といえば和歌山県内の国宝建造物7件の内3件を所蔵する正に国民の宝。半年もほったらかしなのは政治家に廻す金はあっても文化予算に廻す金がないのか、和歌山だから後回しにされているのか。その昔、日本は経済は一流、政治は二流、文化は三流と言われたが遂に全て三流国家に成り果てたか。嗚呼。

 

 

 

 

 

 

子供の頃、「自分はもっと真面目に勉強していれば東大に入れたんだ」とか「もっと部活動を頑張っていれば国体に出られたんた」などと友人同士でよく言い合った。

 

そんな夢物語も懐かしい思い出になりかけていた頃、ある音楽評論家の本を目にした。辛口で知られる著者はズバリこう書いていた。「今の音楽家、指揮者にせよ、ピアニストにせよ才能があるからその道に進んだ訳ではない。たまたま生まれた家が裕福だった、たまたま家にピアノがあったなどの後天的要因でその道に進んだだけで、そんなもの音楽家としての才能とは何の関係もない。本当に音楽家になるべき人は今全国でスピーカーに向かって指揮棒を振っている。」

 

スピーカーに向かって指揮棒を振っている?正にこの私ではないか!それ以来、やはり私は音楽の道に進むべきだったのではないか、もし進んでいたら今頃世界的なマエストロになって文化勲章くらい貰っていたかも知れないと考えるようになった。

 

いや、これは音楽だけに限らない。つい先日スーパーバンタム級4冠を達成した井上尚弥選手も大谷翔平選手も、はたまた将棋の藤井8冠も皆家族や親戚にその面白さを知るきっかけになる人がいた。私の父親はキャッチボールひとつしてくれなかったので自身の才能に気付く機会がなかっただけで、もし野球の道に進んでいれば大谷以上の選手になっていたかも知れない。これは野球だけでなくボクシングでも将棋でも、そしてあなた方全員にも言えることだ。そんな筈はない?何故そう卑下するのか。では上記の音楽評論家の見解を何と読む。本当に才能ある人が漏れなくその道に進めるようなシステムが日本に出来上がっているとお考えか。

 

いや、これが音楽やスポーツなどの娯楽に留まっている内はまだいい、日本のITに画期的な革命を起こせる可能性のある人が日本の何処かに埋もれているかも知れない。その人の力を借りれば日本の犯罪捜査が飛躍的に進むかも知れない、そんな人が1日中スマホゲームをしていて見つけ出すことが出来ない。これは正に国家的は損失だ。

 

この頃、続く。