就職活動の思い出1

政府からのイベント自粛要請で学校は99%以上休み、相撲も野球も無観客試合という異常事態が続いている。特に、この時期に卒業、入学、入社といった節目を迎える人は本当にお気の毒としか言いようがない。

 

順番は後先するが就職活動について振り返りたい。

 

そもそも大きくなったら何になりたいと思っていたか。幼稚園時の何かの紙に「電車の運転士になりたい。」と書いていたのを見たことがあるが、もとより覚えていない。今思えば、何でもいいからと無理やり書かされたような気もする。

 

父親は商売をやっている訳でもなければ、仕事の話をする訳でもない。その上、どう見ても大変そうにも見えない。仕事が毎日定時に終わってもたまに飲みに行ったり、酔っぱらって帰ってくるようなことがあれば、それなりに社会人の何たるかの勉強もできただろうが、そんなことも一切ない。つまり、働くということ、組織に勤めるということと学生生活の違いがほとんど理解できないまま年齢だけ重ねていった。

 

したがって、特に何になりたいとか、何をやりたいとかの考えのないまま大学4回生となった。ただ、その頃たまたまオーディオが趣味だったのでその関係の会社、または、自身食べるのも作るのも好き、かつ人間、活動する限り食は切っても切り離せないから廃れることはないだろうということで食品メーカーということでの2業種に絞った。

 

商社や金融機関(証券会社、銀行)、また公務員は考えなかったのだろうか。

・・・何故か考えることはなかった。就職といえば人生にとっての一大事なのに、考えるのが面倒くさいと感じていたのが本当のところだ。どうも私は課題や問題が大きくなるほど、大胆かつ鈍感になるようなところがあり、例えば、キャベツの値段が10円違っただけでしばらく立ち直れないほどのショックを受けるのに100万円単位の自動車購入をスパッと決めたりする弊がある。

 

我々の時代の就職は4回生になって始めるのが決まりで、4月~夏休みが情報収集期、10月1日が面接解禁日、11月1日が選考解禁日となっていた。他の大学は知らないが、年度初め、4回生全員に広辞苑のような分厚い冊子が配布され、前半:企業紹介、後半:各社への資料請求のはがき、から成っていた。学生は企業紹介のページを見て、興味を持った会社にはがきを送るという手順である。今でも覚えているのは当時の初任給全国ナンバーワンは餃子の王将で20万円だった。私の回りで受けた者はいなかったが。

 

私も電気メーカー、食品メーカー各数社にはがきを送った。以降、次回。